金田一の三斎市の遍歴については不明な分が多く、このことは、三斎市が何度か中断したことを物語っていると思われる。二戸郡誌、九戸地方史等の文献調査後一つの古文書が見つかったので、正しい解読か否かは別として先ず紹介したい。

この古文書には

金田一 惣御百姓
宿老 与傅次 治左エ門
肝煎 吉左エ門 与兵衛
検断 武左エ門

の名で、福岡代官所に金田一で市を立てられるようにして欲しいとの願書であり宝暦三年酉二月とある。

 大ざっぱな意味は”金田一に天和(1681〜)年以来市立してきた三斎市が、この後月3度も立たないほど廃れ、宝暦(1751〜1763)年代には5月4日のみとなった。これでは生活も大変なので昔のように月三回市が立つようにしてもらいたい。昔頂いた「市」の許可証があるのでよろしく取計い願いたい”という内容のようである。
 二戸郡誌には「元禄年間以降は奥州街道の発達に伴って福岡町・一戸町…金田一市等の宿駅が公認され、福岡・一戸・金田一等は宿場町として発展する一方、市場町として物資の交換市場でもあった」とあり、九戸地方史に掲載されている近世末期の南部・八戸領の市日開設状況の表には金田一の地名が見当たらない。
 「明治20年ごろまでは金田一にも4日ごと(注.4のつく日ごとと思われる)に市日が開かれていた」「明治35・36年、福岡を中心として開かれる市というのは次のとおりであった。1日−一戸、2日−浄法寺(軽米)、3日−やすみ、4日−金田一(葛巻)(新町)、5日−五日市、6日−(空白)、7日−伊保内、8日−三戸、9日−福岡、10日−田子、これらの外に終戦後、石切所が5日、上斗米が8日というように開設することがでてきた」
 金田一には「祈り藤」という伝説がある。市日の混雑の中で娘を踏み殺された巫女が藤を植え「この藤ある限り金田一には大きな市が立たぬように」と呪い、その数年後から市日には怪我人・死人が出たため、市日に来る人が漸次減って遂に市日がなくなったというものである。
 市中断の期間は確認できないが、市掛経験者から聞くところによると、現在の市は昭和25年頃開設したとのことである。よって中断の期間は明治40年頃から昭和26年頃までと言えよう。中断や消滅の年月を断定しにくい理由は、人それぞれの見方があるためであろう。例えば、市掛商人が2・3人出ても市といえるのか否かの問題もあろう。消滅するにも、一斉に引き上げるものでもないだろうから判定は困難である。

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