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佐々木館のこと

 東北本線斗米駅裏手の丘に佐々木館跡がある。佐々木館の周囲は十米程度の高さであるが、佐々木池のあるあたりは十五米近くになっている。(この池には何時いって見ても二羽のおしどりが仲良く戯れていた)

 佐々木氏は、宇多天皇(八八七)の系譜、宇多源氏の流れをくむ。鎌倉時代の佐々木三郎盛綱(一一六六)は、十六歳の時、源頼朝の麾下(きか)に属して「平行盛」と戦う。初名秀綱。左兵衛尉と、源頼朝の伊豆配所に候す。名も盛綱と改め、後、源頼朝の奥州攻めが終わって、多くの御家人達がそれぞれ所領を与えられた。

 しかし関東その他に本領を有する鎌倉武士が自ら下向するものは少なく、多くは庶子かその一族のもの、あるいは家臣を代官として派遣して所領管理にあたらせたという。

佐々木氏その例にもれず、文治五年(一一八九)、源頼朝が平家の残党そのほか暴徒取り締まりのため、畠山次郎と佐々木三郎を将としてこの地に派遣したが、畠山氏は浄法寺に居館を構えて浄法寺氏と名乗り、佐々木氏は米沢にとどまって居館を構えたといわれている。


 現在、米沢方面には佐々木という地名はないが、館跡を佐々木館とよんでいる。

 初代佐々木三郎盛綱から数代続いて約四百年余り、系譜など一切残っていないので、歴代の館主の名は不明であるが、天正年間に佐々木数馬秀綱というものが館主で五百石の身分であったと言われている。

 佐々木氏の塁址ありと伝えられている米沢は、かつての二戸郡斗米村の管内にある。  斗米は、上斗米、下斗米と分かれ、福岡の西方、馬渕側を挟んで二里(八キロ)似鳥と金田一の中間にあり、米沢、石切所を支配しておった。


 この系統の本家から桜庭(さくらば)氏が分出する。


 時は天正十六年(一五八七)、春おそい五月の夜であった。九戸勢に不意に、しかも夜襲という戦法を仕掛けられた。佐々木館は混乱した。

数馬とその部下は防戦につとめたが敵しがたいことを知り、一子を館外に遁れさせたという。後、九戸方の家来となり、九戸城の戦には、九戸勢に加担したという。



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