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金田一字舘の長寿寺と八坂神社裏方の高台に四戸城趾あり。その真ん中あたりと思われる場所に大きな石が城跡の象徴のように残っている。この石を通称「ベゴ石」と呼んでいる。
四戸氏は、南部初代藩主、南部三郎光行公の四男、四戸孫四郎宗朝(南部)が、二戸郡四戸の郷を賜ったことにはじまるという。
四戸城は、南部二十二代政康が、現在の青森県五戸町浅水を本拠としていた四戸氏の何代目かは不明であるが、南部領南方の守りや、九戸氏の勢力の拡大などに対処する為に四戸城をこの地に築城させたとされており、九戸城跡とは直線距離で約五キロしか離れていない。
「いつから四戸氏が、当地に移住したのかは確かでないが、築城は、南部二十二代政康公の代とすると一五〇〇年代頃より少し前ごろと見られます。」今から五二〇年前頃か?
四戸城としての落城は、九戸城の落城(一五九一年)とやや時を同じくするが、四戸城の場合は十六代宗春の代に弟の金次郎が、南部史に「宗春は謀反に同調している」と流言を流したため、宗春が一族郎徒僅か十二人を従えて秋田へ遁れ秋田にて病死、子の十七代宗長は城主を継がず、八戸氏に寄食し、後、田名部に移り、転じて竹内藤右衛門の船に乗り、越前の新保に住し、武田氏と改め五十七歳で亡くなった。
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