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東北本線が開通したのが、前にも述べた様に、明治二十四年(一八九一)の百年前のことであるが、当時鉄道開通工事は勿論のこと、川の上に鉄橋を架けるということは、難工事中の難工事だったのである。又鉄道全体に重量を支える橋脚は、特に強固でなければならなかったので、大変な技術を要したものであったろう。 昔、金田一と斗米の境の十文字川に架かっている鉄橋を通称「長瀬の鉄橋」と呼んでいた。此の鉄道工事に就いて、今は亡き古老の口伝に依って語り継がれている、悲惨な犠牲者のあったことを忘れてはなるまい。昔から「橋や城の大工事には、犠牲者が出ないと工事が完成しない」とまで言われ、誰かが「人柱」となって工事中の事故などで亡くなって行くのであった。 長瀬の鉄橋は高く、距離も長かったので、橋脚も物凄い巨大なものである。橋脚は三本立ち並んでいるが、その中の北側に立っている橋脚は、近くの釜場で焼いて製造した煉瓦できれいに積み組み立てられているが、一方中央の橋脚は煉瓦を使用せず、こんどは大きな切石が規律良くがっちりと組み立てられ、いかにも堅固そうである。この石はどこからこれだけの量を搬出して来たのかは不明である。又、今一つの南側の橋脚はこんどは切石を使用せず、近代的コンクリート仕上げとなっていて、この橋脚三本がそれぞれ三種類の工程で、長い歳月を費やして完成した面影が、三本の橋脚にありありと歴史を刻みこんでいるようである。 又、煉瓦の橋脚について、このような話が残っている。 この北側の橋脚より二〇〇米位北東の馬渕川崖上の広い場所に、大きな焼釜を造り、煉瓦の原料となる硅藻土は、金田一の沢田の奥地より馬数頭で一里(約四杵)の道を連日釜場まで運び、そこで色々の工程を経て、煉瓦の原型を造っては釜で焼き、数日毎に焼き上がった製品の中から良品だけ選んで橋脚の根元より一個一個丹念に積み上げたという。何万個という実に莫大な数をどれだけの日数をかけた物や知る由もないが、今ここに百年余りの歳月を経ても尚橋脚は未だ健在であることを証明している。 煉瓦場だった場所からは最近まで沢山の欠片が出土していたそうだ。 |