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金田一上町の長寿寺入口より南に百米位の処を西方向へ右折すると沢田という地名あり。此の沢田より、約三キロ米位行くと右手側の方向は「沼ノ久保」部落がある。直進すると「柳沢」部落。ここから右折すると「長久保」部落に至る。此の最初の沼ノ久保に、藩制時代からの馬の放牧場だった跡が残っている。 緩やかな傾斜地であるが、昔の人達は放牧場の柵を通称「土手」と呼んでいた。(土をもって作った高さ八尺(二・五米位)この土手の上に松並木が植えられている)この土手の中が放牧場である。馬はこの柵を跳越えることは不可能である。この山の下の方には自然に湧き出る水呑場も整えられてあった。場所は、今は「池」となっている。 初夏の草木が萌える頃になると当歳(一歳)の馬が一斉に大地の青々とした牧場に放され二歳の駒になるまで牧場の係達の行き届いた管理のもとに成長して行き駒になると牧場より連れ出されて、金田一の場合は駒焼場に集合させて上馬、中馬、下馬と分けられ、藩の証明である鉄製の焼印を駒の臀部に、どこの馬であるかを確認するための印を押した、という。 仕分けされた駒は調教され乗馬となったり或は軍馬用となり、戦になると武器とまでなるのである。昔この放牧場だった山主は、金田一の某地主さんの所有であったようだが、今は個人の山のようで一部に造林している処もある。
これが南部藩の馬産地といわれる所以であろう。こうして、中央から馬の要請に何時でもこたえていたのであろう。 |