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昭和六年頃、私は未だ小学校に入っていた。 斗米村の下米沢に某地主様が居た。当時、金田一村内にも沢山の畑を所有していた。この畑を金田一の小作人達数戸で仕付けていた。主に小麦、稗、大豆、その他を作付けしていた。が、収穫時になると、地主様の家から「かが様」がわざわざ、通称(トトメキ)の近道を通り、金田一の上平を経て、私の家まで歩いて来た。私の家でも、小作人の仲間で世話役をしていた。 私が未だ学校へ出かける前の朝早く、もう仕事の段取りの話しをしていた「かが様」は何時も、お歯黒で歯を染めて着物を着ていて、見るからに風格のある立派なお方で、五十歳位だったろうか。今も記憶に残っている。 段取りが決まると、小作人の畑へ出向いて検分し廻って歩き、お昼になると家に戻って来て昼食をするが、その時の食事は、白いご飯に豆腐汁、又は素麺、若しくは、ひっつみがお客様への最大のご馳走であった。「私も何時もお客様が来ると良いなあ」と思ったものだ。 昼食が済むと再び畑を巡回し、分作の数を確認し、分作の割合は地主六、小作四と相場は決まっていた。地主の方では、地租税(国定資産税)や色々と諸経費の支払いがあるので、その様になっているのだそうだ。分けた地主様の分は、出来るだけその日の内に米沢の家まで馬の背で運んで届けた。(後年金田一で総て処理した)と言う。 「かが様」は検分が終わって米沢へ帰る頃は、既に秋の日は短く何時も日が暮れ、薄暗くなるのだが「かが様」はそれ程心配する風もなく、私の家では明日も検分があるので泊まるよう勧めるが、何時でも泊まらず帰って行くが、帰りには必ず五、六匹の煮干しをもらって帰るのだった。 私は「かが様」がこの固い煮干しを噛みながら歩いていくのだろうかと不思議でならなかったが、あとで親父から聞いてびっくりした。「トトメキ」の鉄橋の下を通る時、十文字川に架かっている幅の狭い小さな土橋の袂で「綽名(あだな)」トトメキとらこ女狐が「かが様」の帰りを待っていて、ここで煮干しを一匹宛もらいながら暗い小道を道案内するのだと聞かされた。 何時でも狐の正体は現さず、ほっかぶりをした中年の小柄の女の姿で待っているのであった。 |
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