1.八坂神社(金田一字野月鎮座)と大八車の関係
■ 八坂神社の起源(別当戸田忠彦氏の記録)
 八坂神社は、旧称牛頭天王宮と称され、須佐男命を祭神として奉斎されている。古説によると文屋綿麿が仁薩体の蝦夷を平定するに際して、武運長久のため守護神として祇園社の分室を勧請したものである。のり、京極有忠郷の崇敬ありし由なるも、元和元年火災にて宝物諸記録を失い、同3年御堂建造、寛政5年元社殿を建て直した。旧南部公の崇敬厚く数々の献納品であり、中でも現在の神興は文化3年の献納である。祭礼神興渡御には千石格式をもって警護付され、改修に際しては普請奉行を以て当らしめた。藩主転封させられ松平斗南藩となるや当社を以て藩一般の祈願社として地方民の崇敬があった。明治6年7月郷社に列させられ同時に神明宮、八幡宮を合祀し明治40年3月16日神饌幣●料供進指定神社となる。
 8、9世紀ごろ、馬淵川流域には仁薩体を中心とするエゾ地だった。嵯峨天皇の弘仁2年(西暦811年)エゾ酋長伊加古を討った討伐総大将の文屋綿麿が5月から10月5日まで約2万の軍勢を繰り出して征討した。その戦闘に際して武運長久を祈り、平定後の10月7日に戦勝報告したのが、この八坂神社であるという。
■ 大八車の起源
 永暦年間(1160年頃)に公家から仏門に入って京極有忠が八坂神社2度目の分霊を京都から奉迎、その警護役が七ツ物、しし踊り、太神楽と共に大八車を伝えたという。(岩手日報「ふるさとのお社」より)
■ 大八車の神興渡御のお供
 大八車が八坂神社の神興渡御にお供するようになった年代は明らかでない。
 八坂神社に保存されている「八坂神社御祭礼行列繰出帳(明治10年)」当番戸田新七の書かれたもので、大八車が行列にお伴したことがわかる。

それには 大八車 鉄棒引 春直 源兵ヱの子乙吉
大八車 左次郎 喜弥太 小太郎 又右ェ門
喜三郎 金平 幸八 与右ェ門
小八権太 熊太郎 与吉代り倉蔵
(不明) (不明) 山畑金太郎
岩崎万次郎
 と書かれてある資料によって、明治10年の御祭礼には神興渡御並びに大八車が行列に参加してお伴したことがわかる。
 大八車は例祭の神興渡御には常にお伴した。山車が参加しない年でも必ずお伴する習わしであった。
2.大八車に所属した家
 大八車に所属した家は年代により一定していないが、概ね金田一の上町から仲町に至る旧家であった。
3.大八車行列の構成
 八坂神社神興渡御にお伴するときの大八車行列の構成は、概ね次のようになっていた。世話人、車引き、綱引き、竹割引き、金棒引き、太鼓打ち、笛吹き、三味線ひきで構成されていた。車引きの奉仕は小林、下山井、湯田の部落の人々に依頼した。太鼓打ちは女の子供3人から5・6人大八車に乗った。竹割引きには女4人、金棒引きは女2人で、太鼓打ちより年上のものが選ばれた。三味線は男2人、笛吹きは男3・4人ぐらいであった。世話人は大八車に所属する同志から当番制で4・5人程度であった。

4.大八車の構造
 2コの大車輪に屋台、それに屋根の組立式である。屋根の正面に「秀積輩」と書いた額が掲げられた。この額の文字は戸田新八氏の筆蹟である。


5.大八車の経費
 大八車のお伴の経費は、八坂神社の収入の中から支出されたもので、大八車は山車と違って門づけをしない習わしであった。しかし、大八車の度重なる修理が行われるようになってからは、この修理費は大八車に所属する家々で負担するようになった。車引きは無料で奉仕したので、その人夫たちの食事はその年の当番の家で、1日一人の割合でモッキリ1杯と共に賄う例であった。


 年を追うにつれて大八車の行列お伴が下火になっていった。その理由は年毎に例祭の山車が盛んになり、若者達は大八車につくより山車のほうに興味をもつようになっていった。山車連は軒なみ寄付を集めて回るようになり、大八車の氏子達は、大八車の修理費や賄料の他に、山車の寄付と二重三重の負担となってきた。こうしたことから苦情なども出て来て、大八車のお伴は下火とならざるを得なかった。
(八坂神社に嘉永5年と万延元年に修理した記録がある)

6.大八車の現況
 車、屋台、屋根と分解して長寿寺位牌堂の床下に置かれていた。最後に例祭にお伴したのが昭和36年である。
 昭和54年に修理塗装して組み立てた。太鼓は八坂神社に保存されているが、笛の行方は不明である。

大八車の設計図の一部

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