町上商店会「あきんど」電子版 

■この街 再発見その1
城内地区周辺と金ヶ崎城の歴史について
 よく「武家屋敷跡」とか「歴史公園の構想」とかそういった事をよく耳にします。しかしその歴史的事柄については何となくしか理解できていないような気がします。そこで自分自身も含めてもう一度この城内地区の歴史、武家屋敷の歴史的価値について考えてみたいと思います。

 城内地区は航空写真等を見ても分かるとおり、自然が形成した要害といえるものです。
「炎たつ」で一躍脚光を浴びた時代以前に、この地にアテルイ討伐のための拠点としてまた、950年頃の安部氏の時代には頼朝の義弟にあたる金偽行の居城があり頼朝の娘白糸姫が在城していたとも伝えられています。

 伊達氏が統治していた時代になると、金ヶ崎城は仙台藩の北限にあり、南部藩に備える重要な要害でした。

 そして、寛永21年(1644年)伊達氏の家臣・大町備前定頼が東山(現在の東磐井郡)藤沢から百余名の家臣を引き連れて、この地に城下町をつくりました。

 さて、この金ヶ崎城は大町氏の住居にあたる二の丸と、本丸、東館、蔵館、観音館、大庭等から構成されてそれぞれの館は、堀や空堀、土塁で囲まれていました。

 大町氏の城下町は、城内、諏訪小路、南町、本町、矢来の各地区で、城内と諏訪小路には家臣団屋敷、南口の南町、北口の矢来には足軽屋敷、本町は町人町(商人)でした。

 そして長く続いた武家時代も明治維新によって終篶を迎え、版籍奉還(1869年・明治2年)が行われ、大町氏九代・殖頼が仙台に去りました。その後、城は取り壊され、250年あまりの大町氏の統治は幕を閉じることとなりました。一方、家臣の人々は突然の出来事に途方に暮れたものの、幸いに知行地が私有地として認められたため、氏族の称号を捨てて、平民として帰農していきました。

文・多喜治

■この街再発見 その2
成内、諏訪小路地区の歴史的価値とは?
 だんだん秋も深まり、山ではもう冠雪したところもあるこの頃ですが、城内地区の金ヶ崎幼稚園北隣の旧宅のモミジの大木はすばらしい紅葉を見せてくれています。

 さて、前回は城内地区の歴史を見てきましたが、今回はこの地区を歴史的財産ととらえたときの価値について考えてみたいと思います。個人的に、ここ城内・諏訪小路地区の伝統的建築群の調査をされた、東北大学教授の伊藤邦明氏にお話を伺う機会がありました。だんだんお酒も入ってきて話も盛り上がりました。

 そのときの印象に残っている伊藤教授の言葉は、「角館や弘前市等の伝建群に比べれば本当に貧弱なものかも知れないが、しかし、この地区のこの雰囲気・・江戸末期の風情をこれだけ残しているのはちょっと他地区には見あたらない。」といったニュアンスの話をお聞きしました。

 全国の古建築や伝建群をたくさん見てきているプロがここ金ヶ崎城内地区は貴重な歴史的遺産であり、この地区全体をこのまま保存し住民が(そこに直接住んでいる人々だけでなく、周囲の住民も含めて)それを大切にしていかなければいけないといったことを示唆していると思います。

独断と偏見でみる伝建群
 町外から城内地区の歴史的な価値、保存の必要性が叫ばれています。しかし、自分を含めいつも見ている城内地区がほとんど全国に誇れるものなのか?武家屋敷というとどうしても、角館のような立派(人為的に整備されたもの)なものをイメージしがちです。

 しかし、北上川と奥州街道沿いの町屋敷群、その周囲とがセットになっていまなお残っていることにもっと地元の人間として誇り(そうでなくともここを散策するとほんとに落ちつきますよ)をもっていけたら、そして自分たちの子供にもこれを伝えられたらと思います。

 こうした歴史的遺産は新たに創造する事は不可能であり、これをいかに保存(実際に住民もいる)していくか、後世に伝えていくか真剣に考えて行くことが現在の自分たちの役割(オーバーか)ではないか・・・?


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