開業明治24年9月1日 二戸郡一戸町中山 駅舎昭和15年10月建設

SL三重連の雄姿

 昭和43年10月1日、東北本線は全線が複線化され同時に電化された。(それまでは蒸気機関車かディーゼル機関車であった。)奥中山駅北の十三本木峠(中山峠)は1,000分の23.8という急な勾配で東北本線の中でも一番の難所といわれた。かつては列車が峠にさしかかるに従って速度は次第に落ち、停まってしまうかと心配になる頃にようやくこの峠を越えた。

 昭和30年頃の思い出だが、たまたま列車に乗り合わせていた幼児がずっと車窓を見ていた。やがて列車が峠にさしかかると、幼児は速度の低下に気がつき、「停まっちゃうよ。」としきりに言い始めた。するとその子の母親は、「お山を越えるから汽車も大変ね。」と答えた。子供は「疲れたね、汽車も疲れちゃったねー。」と何度も口にした。乗り合わせた人達の間からかすかな笑い声が響き、その子の「頑張れ、頑張れ」という声につられるように、みんなが窓の外の景色を見つめていた。「汽車が疲れる」という何とも子供らしいほほえましい表現に、もしかしたら汽車が止まってしまうのではというかすかな不安が一変し、何故か暖かな気持ちに包まれたものだ。十三本木峠はそれほどの難所であった。

 昭和33年10月からは蒸気機関車を三台繋いでこの峠を越える事が本格化した。D51(通称デゴイチ)と呼ばれる蒸気機関車が三台連なって、もくもくと煙を吐きながら峠を越える雄姿は圧巻であった。多いときには50両もの貨車を引いた。その重量は1,000トンにもなったという。

 昭和40年10月、それまでの蒸気機関車に変わりディーゼル機関車が登場。蒸気機関車による三重連を見ることは出来なくなった。(SLとディーゼル機関車の併用運転となった。)

 この難所であった十三本木峠を越えるために、盛岡〜沼宮内間では本務機関車の前に補機を一台連結、沼宮内〜一戸間は補機を二台連結(つまり三重連)、一戸〜青森間は補機を一台連結し、輸送力の強化を目指したというが、列車の速度は遅く、補機の連結・解放、機関車の給水などで列車の到着時分は伸びた。加えて、当時は単線であったから列車の本数は押さえられた。このため東北本線全線の複線化と電化が望まれた。昭和43年9月27日、蒸気機関車による最後の三重連が小雨の十三本木峠を越えた。同年10月1日の全線電化・複線化を境に蒸気機関車(SL)の運転は完全に終わった。

(参考文献:一戸町誌、JR東日本発行「旅もよう・奥中山駅」、盛岡鉄道管理局「100年の栄光」、河北新報「いわて鉄道物語」、他)


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